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山根義信の独立開業記 <独立の決意>

私の実家は能登半島の過疎の村。今からもう40年以上も前の小学校4年生の時の話です。私の祖父母はともに重度の障害をもっており、私は障害者のいる家庭で育ちました。
  父が出稼ぎに行き、祖父は金沢の病院に入院しており、その年、家には母と私を含め4人の兄弟が居りました。私の祖母は半身不随で歩くことも、何かを手に取ることも自分ではできません。何か用事があるときは、部屋から手元のハーモニカを吹いて私たちに知らせ、音に気づいた誰かが祖母の元に行き、祖母の世話をすることになっていました。

「おばば、呼ぶなまん!」

 ある日の夕方、子供たち4人がテレビ漫画を観ていたところへ祖母のハーモニカの音が聞こえました。いつもなら、われ先にと率先して祖母の元に駆けつける兄弟でしたが、この日ばかりはテレビの漫画に夢中になり、誰も部屋を出ようとしませんでした。母が何かの用事で不在でしたから、4人の中の誰かが行かなければならなかったのですが、兄たちは「われが行け!(お前が行け)」と私に指図し、私は弟に「われが行け!(お前が行け)」と指図し、あげくに1番小さな弟は泣き出す始末・・・。結局、真ん中の次男坊である私が行くことになりました。
  しぶしぶ腰をあげた私は、テレビが見たくてしかたないのと、しつこく呼ぶ祖母のハーモニカの音が腹立たしくて、祖母の部屋に入るやいなや、いきなり「おばば、なんやいねん、呼ぶなまん!(ババァ、なんだよ、呼ぶなよ!)」と、怒鳴るように大声で言ってしまったのです。
  そのとき私は、心の中で「しまった。いけないことを言ってしまった」と思いましたが、祖母は驚くと同時に悲しげにうつむき、黙ってしまいました。私もその沈黙とその場の空気に耐えきれず、その場を逃げるように後にしました。その後、しばらく何日もの間、祖母の部屋からハーモニカの音が消えてなくなってしまったのは言うまでもありません。
  私は叱られるのが怖くて、母にこのことを話せずにいました。祖母に謝らなくてはと思いながらも言いだす機会を失い、それから2年が経ち、祖母は他界しました。

板場の上の大粒の涙

 祖母が部屋で息を引き取り、母が葬儀の準備のため椅子の上に乗って戸棚の上を拭き掃除していたときのことです。板場(畳を敷いていない板の状態のところ)に母の大粒の涙がいくつもいくつも落ちてきたのを昨日のことのように覚えています。声を出さずに涙をこらえながら雑巾がけする母の姿を見たとき、私は子供ながらに、約20年もの間の母の苦労をその大粒の涙に垣間見たような気がしました。
  葬式が終わりしばらくして、私自身の胸の中にもやもやした状態で残っていたハーモニカの出来事を母に告白すると、母は祖母の様子から何かがあったことを感じとっていたとのこと。母は自分も永く障害のある祖父母の世話をしながら、幾度となく同じことを思ったことがあると私に告げてくれました。子供の私は責められないと思ったとのことでした。私はこのときほど母の優しさを感じたことはありません。
  中学を卒業してすぐに就職しようと考えたのは、家計を少しでも私の力で助けられればという気持ちからです(決して、父母は私がこのように考えることを望んでいたわけではないと思いますが・・・)。
  また、中小企業診断士として独立することを考えたときに。当時の祖母の悲しげな顔を思い出しながら、「困っている人のために何か私にできることはないのか」「何か社会に役立ちたい」と人一倍、強く思ったのも事実です。
  私の診断士としての独立の陰には、こうした出来事や家庭環境があったのです。